私は運が良い
私は幸運
いつのまにか暦も12月になり、今年もあと少しで終わりを告げます。
同時に新しい年が始まりを告げます。
物事とは、常に表と裏が存在します。
先に書いたように暦でいえば、12月は今年の終わりであるのと同時に、新しい年の始まりでもあります。
表裏一体という言葉があります。
同じ物事でも、見方や考え方を変える事で、感じ方を変える事ができます。
先日、私は奥歯に被せてある、銀歯が外れてしまいました。
私の記憶ですのでかなり怪しいのですが、多分20年以上はお世話になって来たと思います。
運転をしながら昼食にとサンドイッチを口にしていた時に、急に口の中に硬い物が出てきてびっくりして出しました。
最初は、まさか、コンビニのサンドイッチに異物が混入しているとは思いませんでした。
とりあえずは、証拠としてきちんと説明できる様にと、口の中にある、硬い物質を出してみると、それはサンドイッチの中にある異物ではなく、奥歯に被せてあった銀歯でした。
びっくりしたのと同時に、何でこの年末に差し掛かるタイミングで取れるのかと、少し腹も立ちました。
しばらく車を走らせながら、いろいろと思案を巡らせていたら、この時期で運が良かったのかもと、思えてきました。
これがもし、年末に入り、歯医者さんがお正月休みになってしまっていたらと思うと、なんて運が良いのだとも思えてきました。
親鸞聖人は「教行信証」の総序の中でお念仏の事を、
「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳となす正智」
と書かれております。
人は自分中心の生き物です。
そして、自分の状態に沿わない物事を悪と表現します。
しかし、その悪の実際の姿は、自分中心の考え方に偏った偏見でしかなく、少し考え方や価値観を変えることによって、素晴らしい縁に変貌する事も多々あります。
私たちは、生きていれば、出会いの数と同じ数だけ、別れが生まれます。
歳を重ねればその分、身体もなりままならなくなります。
当然の事ですが、自分中心の私であれば、少しでも不都合が生まれれば、どれも嫌なことばかりの人生に映ります。
それでも、本質を丁寧に見てみると、出会いと別れがあると言う事は、誰かと出合える、生きている証です。
そして、孤独ではないという事にもなります。
また、身体がままならなくなってきたのは、長く生きる事ができた証であり、命が継続されてきた証です。
決して悪い事ではありません。
もし、愚痴れる自分の姿が見えているのであれば、既に智恵のある証であり、仏法が届いている証です。
法然上人は自らを「愚痴の法然」と呼ばれたそうです。
仏教の基本は気づきです。
「覚」と書きます 自分の姿に気づける事が、何より大切だと教えてくれるのがお念仏の教えです。
お念仏の教えは決して、「清く、正しく、美しく」なりましょうという教えではありません。
どこまでも、今があるのだから「運が良い」私がいます。
ただ自己都合が先に立ち、運が良い私になかなか気づけないだけの事です。
無理に気が付く必要は無く、そのままで良いと思います。
そうでなければ、阿弥陀様のお仕事が無くなります。
合掌