歎異抄1-1
歎異抄
歎異抄の第一章の第一文を意訳してみました。
阿弥陀様と暮らすとは阿弥陀様を人生のパートナーとする事であり、阿弥陀様と主従関係になる事ではありません。
つまり、念仏者の暮らしとは、阿弥陀様に気に入ってもらう事ではなく、阿弥陀様を豊かな人生のパートナーとする暮らしです。
① 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
② 弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。
③ しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々
①弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて
① 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
運よく弥陀との縁があり、たまたま今がもらえている総ての人は、それぞれに自分らしく生きて往く事(往生)が最も大切な「行」として求められます。
念仏者の暮らしという物は、すでに今をもらえている事への確認の行であり、同時に今の状況を糧や踏み台にして、自身の未来をより豊かにする知的行為です。
つまり、何らかの見返りを、阿弥陀様に欲しがるようなものでは一切ありません。
そして、決して念仏者になったのだからと、自分自身の位が上がったとか、浄化されたというものでもありません。
人間は常に喜怒哀楽の中に住んでいます。
その、喜怒哀楽の中で自分らしく生きる時間が「往生」であり、摂取不捨の利益はその時間の中で起きる総ての事に価値があり、どんな経験も必ず豊かな未来の糧や踏み台になると教えてくれています。
死後と表現されるこの先、未来は総ての世界の今後であり、命を終えた後の世界ではありません。
②弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず
② 弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。
弥陀の本願は、今の存在に「はたらいている」ものなので、後から「何か」を行う必要は特にありません。
早く生まれたお年寄りも、生まれたての嬰児も、みんな弥陀の本願に内包されて始まっています。
つまり、阿弥陀様の縁によって始まった私たちなので、阿弥陀様に対して特別に何かを捧げるような事は一切、必要がないのです。
第十八願(至心信楽の願)自分らしく生きる事を、「悪深重煩悩熾盛の衆生」と歎異抄では書かれていますが、一般的には「凡夫」と呼ばれる姿です。
存在自体はすでに、「摂取不捨」の世界、阿弥陀様に内包されて始まっているので、「凡夫」の姿は、すでに弥陀にたすけられています。
私達が、阿弥陀様からもらえている環境の有難さに気付く(仏のはたらきかけ)事はとても難しく、年齢も、善悪も関係なく、無条件にはたらきかけてくれます。
生きているという事実、今存在している事が阿弥陀様からの信心が届いている証です。
歎異抄では、今現在も存在している人の姿を「悪深重煩悩熾盛の衆生」と表現されています。
弥陀の信心が届き、人間らしく喜怒哀楽の時間、自己都合の中を過ごしている人の事を「悪深重煩悩熾盛の衆生」と表しており、これは全人類が「悪深重煩悩熾盛の衆生」という事にもなります。
阿弥陀様と縁があり、今がある「悪深重煩悩熾盛の衆生」であればたすけてくれるのです。
ここに摂取不捨の意味があります。
③ しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず
③ しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々
すなわち、本願を信じるとは、自分らしく生きる事であり、この姿を往生と表現されています。
阿弥陀様に気を遣う生き方を、お念仏の教では求めているのではありません。
お念仏の教えを正しく聞くという事は、教行信証の総序に記されている「円融至徳の嘉号」という言葉の意味をしっかりと学ぶ事です。
私たちには一人漏らさず(摂取不捨)、弥陀からの信心が届いているので、何らかのきっかけで気付く(仏に出会える)事ができます。
そして、何らかのきっかけのほとんどは、「大悲」と言われるように、悲しみや苦しみ等、自身にとっては、涙が出る様な悲しくて、苦しくて、辛い不都合な事がほとんどです。
しつこいですが、弥陀の信心は総ての人に届いています。
これは、阿弥陀様とお付き合いをする中で、とても大切な要素です。
阿弥陀様よりいただいた、人生の主役を放り出すよう様な行為は、弥陀の本願を妨げる行為であり、これほどの阿弥陀様への失礼な行為、悪行はありません。云々