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歎異抄1-2

2022/01/11
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歎異抄

今回は、歎異抄1-2章を意訳してみました。

仏説という言葉を今の生活に置くのか、死んだ後の世界に置くのかは、その方の自由です。

私は、今の生き方に仏説を照らし合わせる考え方が、好きです。

また、死んだ後にまで、今を引きずる考え方は、第11願の必至滅度の願に反すると考えますので、親鸞聖人の考え方とは反する思想だと考えています。

①おのおの十余ヶ国の境を越えて

②しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し

③もししからば、南都北嶺にも

④親鸞におきては

⑤念仏は、まことに浄土に生まるるたね

⑥たとい法然聖人にすかされまいらせて

⑦そのゆえは、自余の行を励みて

⑧弥陀の本願

⑨善導の御釈まことならば

⑩詮ずるところ

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① おのおの十余ヶ国の境を越えて

① おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。

それぞれが遠方より、地域の代表者として命がけで、京都まで念仏の教えを確認をしに来ている人はみんな、人生に無駄がない(無碍)の教えを問い合わせるためである。

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②しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し

②しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしましてはんべらば、大きなる誤りなり。

つまり、念仏(自分が人生の主役)の教え以外の人生の過ごし方をどこかで聞き、念仏の教え以外に特別な方法を持っているなどと疑いを抱く事は大きな誤りである。

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③もししからば、南都北嶺にも

③もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かるべきなり。

もし、お念仏の教えに疑問があるのであれば、興福寺や比叡山延暦寺などの浄土門以外の学識者に、往生の要の教えをしっかりと学べばよいと思います。

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④親鸞におきては

④親鸞におきては、 「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。

私(親鸞)においては、 「すでに弥陀に助けられているのだから、この縁を大切にひきうけます。」 と法然上人など素晴らしい人達が継承してきた、このお念仏の教えを素直に信じて生き往くだけで、他に特別な事はありません。

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⑤念仏は、まことに浄土に生まるるたね

⑤念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。

念仏者の生き方とは、弥陀の縁尽き命が終わった時に、浄土に生まれる生き方(業)なのか、それとも地獄に堕ちる生き方(業)なのか、死んだ経験が無い私にはわかりません。

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⑥たとい法然聖人にすかされまいらせて

⑥たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。

もしかして、法然上人に騙されて、生きている時に念仏をして、死後に地獄に堕ちても特に後悔はありません。

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⑦そのゆえは、自余の行を励みて

⑦そのゆえは、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にも堕ちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」という後悔も候わめ。 いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

その理由は、私もたくさん修行しました。

しかし、どれだけ頑張っても、仏様のような清浄な存在にはなれないのが私という事が分かりました。

また、お釈迦様も日常を大切に生きる「中道」という道を選ばれています。

なので、「法然上人に騙されたとしても」命が終わった後の覚悟はできています。

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⑧弥陀の本願

⑧弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。 仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。

弥陀の本願というおはたらきが正しいものであれば、お釈迦様のお説教は嘘ではありません。

仏の解説が正しいものであれば、善導大師の解釈もまた、噓ではありません。

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⑨善導の御釈まことならば

⑨善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。 法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か。

善導大師の解釈が真であれば、法然上人の言葉も空言ではありません。 法然上人のお言葉が真であれば、私が申す主旨も空言や嘘ではありません。

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⑩詮ずるところ

⑩詮ずるところ、愚身が信心におきてはかくのごとし 。 このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御計らいなり、と云々。

詰まるところ、何のとりえもない私が、今存在させていただける事実。

これは、他力の証であり、弥陀からの信心(おはたらき)をこの身で引き受けている証です。

このうえは、念仏の教えを信じて、自分は自分、他人は他人という分別を持ち、人生の主役を生きる道を選ぶのもよいでしょう。

また、念仏の教えを棄てて、人生の主役を放棄して、誰かの下僕としての生き方を選ぶのも、それぞれの自由です。

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