非完成の人生
非完成が大切
非完成という言葉あるかどうかは知りません。
ただ、人に完成という言葉はふさわしくないと思います。
最後まで完成する事のない人生だからこそ素晴らしいのだと思います。
お念仏の教えとは、完ぺきでなくて良い、ということを教えてくれているのだと思います。
①真宗大谷派
私のお預かりしている寺院は、真宗大谷派という宗教団体に属しています。
この宗教団体では、法然上人より教えていただいた「お念仏」の教えを大切にした、親鸞聖人を宗祖として、成立しています。
②お念仏
お念仏つまり「南無阿弥陀仏」という言葉を、厄除けや除霊に用いる、呪文の様に思われている人も多々あると思います。
私も幼少期には、その程度だと考え、正直どうでもいいけれども、しないと叱られるので、していました。
③改めて学ぶ
社会に出て働き、今は住職という立場を当たり前の様にしていますが、お寺のお仕事を始めた際にはよくわからない状態でしたので、改めて「お念仏」を見つめ直す事に徹しました。
④お念仏の分解
お念仏とは南無阿弥陀仏という六字から成り立つ名号と呼ばれる言葉です。
この六字は、南無・阿弥陀・仏の3つに分解する事ができます。
⑤南無
先ずは、南無です。
この字は色々な神社仏閣にお参りに行くと、南無釈迦牟尼仏とか南無弥勒菩薩とか書いてある旗を目にする事があります。
この様に南無という文字は、阿弥陀様だけに用いるものではなく、汎用性の高い言葉です。
ただ、私達の宗派では「弥陀一仏」という教えがあり、南無の跡には阿弥陀仏しか用いる事はありません。
これは、宗祖にあたる親鸞聖人の先生である、法然上人の「唯念仏」という教えを愚直に守っている証とも言えます。
南無とはインドの「ナマステ」という言葉が漢字になり南無となったそうです。
ナマステとは「こんにちは」とか「さようなら」を表しているそうです。
日本語に直訳すれば「やあ」とか「どうも」に値すると考えられます。
つまり、時の挨拶であり、お別れの言葉と捉えていただくと良いと思います。
⑥阿弥陀
次に「阿弥陀」です。
これは「たくさん」という意味です。
数字の単位の最上位には「無量大数」という単位があります。
この無量が阿弥陀に値します。
人智を超えた、物事の数とか、出来事と捉えていただくのも、良いと思います。
⑦仏
最後は「仏」ですが、これは教えてくれると訳すのが一番合うと思います。
仏陀(ブッダ)とは、お釈迦様の悟りを獲た、後の姿を表現するときに使われます。
つまり「気が付いた人」とか「理解した人」というような表現になります。
仏だけの単体での意味は「気づき」になります。
これも、気づきの人の状況で変化するので、「気づいた」とも「気づかされた」とも用います。
これをつなげると、南無(どうも)阿弥陀(たくさんの)仏(気づき)となります。
⑧他力
私たちがお念仏を称えるという事は、受け身の訳し方であれば、気づきの中に生きている、と訳しても間違えではないと思います。
また、能動的な場合には、日々精進みたいな前向の訳し方も良いと思います。
この言葉から想像できることは、私たちは常に気づきのはたらきの中に身があるという事だと思います。
⑨丁度いい
同時に気づきがあるという事は、常に変化する私しかいなくて、人は完成する事が無いとも訳せます。
つまり、人とはどこまでも未完成の存在とも表現できます。
本当に美しい物とは完成されたものではなく、法隆寺の鐘楼の様に少しずれていたり、ミロのビーナスの様に何かが足りなかったりするものだと思います。
⑩(まとめ)美しさ
人の生きる姿が美しいのも、どこか足りない、どこかずれている、どこが変など、完成されていないからだと思います。
未完成の、大切さや面白さを教えてくれるのも、お念仏のおはたらきだと思います。
未完成を楽しめる生き方の中に、人生の豊かさが生まれてくるのだと思います。