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歎異抄1ー3

2022/02/23
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歎異抄1-3

今回は、歎異抄の1-3章を意訳してみました。

昔の文章は、定義を変えると読み方が俄然広がり、面白く読めます。

楽しんでくだされば嬉しいです。

①善人なおもて

②しかるを

③この条

④そのゆえは

⑤しかれども

⑥煩悩具足

⑦よって善人だに

親鸞聖人 フリー素材 に対する画像結果

①善人なおもて

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。

善人ですら往生できるのであれば、悪人は間違いなく往生ができます。

間違いない フリー素材 に対する画像結果

②しかるを

しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。

一般的には、悪人が往生できるのだから、善人はどこにも問題はなく往生できるのと考えがちです。

普通 フリー素材 に対する画像結果

③この条

この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。

②の一文は表面的にはそれらしいのです。

しかし、本願つまり存在の問題なのです。

この世の中で、自らの能力で、自らの命や縁を作りあげた存在は、誰一人として存在しないのです。

みんな、縁を与えられて今、存在しているのです。

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④そのゆえは

そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。

この世に全知全能の存在などなく、みんながそれぞれに縁をいただき、その結果として存在できているのです。

また、存在に善悪や優劣をつけるような考え方自体が、縁をもらい、今がある自己という存在を、否定する事と等しくなります。

つまり、阿弥陀様が不公平や不平等をしているという、おかしな話になります。

阿弥陀様 フリー素材 に対する画像結果

⑤しかれども

しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

自分中心の考えを棄て、今がもらえている気持ちを大切にしませんか。

そして、精一杯生きる事ができれば、人として最高の人生を全うできます。

最高 フリー素材 に対する画像結果

⑥煩悩具足

煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり

自分が大好きな私達です。

しかし、みんな必ず終わりの有る有限な存在でしかなく、死にたくない、別れたくない気持ちは、とても良く分かります。

日常を普通としてしか見る事ができない、日常に感謝を持てない悪人だからこそ、阿弥陀様よりお別れなどで感じる、「悲しみ」という心の動きが大切なのです。

悲しみを感じる事で、仏(気づき)としてこれまでの日常を、宝物であふれていた事を、見直し気付けるのです。

この悲しみから「気づく」という事が、大切な成仏の姿であり、そのためには日常を当たり前として生きる、煩悩具足の悪人の時間が、何よりも大切な往生の要素であり、確実に仏と出会える大切な要因となるのです。

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⑦よって善人だに

よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき

つまり、煩悩の時間が無い善人ですら往生できるのだから、煩悩の時間を過ごした悪人が、往生成仏できないわけがありません。

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