歎異抄1ー3
歎異抄1-3
今回は、歎異抄の1-3章を意訳してみました。
昔の文章は、定義を変えると読み方が俄然広がり、面白く読めます。
楽しんでくだされば嬉しいです。
①善人なおもて
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
善人ですら往生できるのであれば、悪人は間違いなく往生ができます。
②しかるを
② しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。
一般的には、悪人が往生できるのだから、善人はどこにも問題はなく往生できるのと考えがちです。
③この条
③ この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。
②の一文は表面的にはそれらしいのです。
しかし、本願つまり存在の問題なのです。
この世の中で、自らの能力で、自らの命や縁を作りあげた存在は、誰一人として存在しないのです。
みんな、縁を与えられて今、存在しているのです。
④そのゆえは
④ そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。
この世に全知全能の存在などなく、みんながそれぞれに縁をいただき、その結果として存在できているのです。
また、存在に善悪や優劣をつけるような考え方自体が、縁をもらい、今がある自己という存在を、否定する事と等しくなります。
つまり、阿弥陀様が不公平や不平等をしているという、おかしな話になります。
⑤しかれども
⑤ しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
自分中心の考えを棄て、今がもらえている気持ちを大切にしませんか。
そして、精一杯生きる事ができれば、人として最高の人生を全うできます。
⑥煩悩具足
⑥ 煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
自分が大好きな私達です。
しかし、みんな必ず終わりの有る有限な存在でしかなく、死にたくない、別れたくない気持ちは、とても良く分かります。
日常を普通としてしか見る事ができない、日常に感謝を持てない悪人だからこそ、阿弥陀様よりお別れなどで感じる、「悲しみ」という心の動きが大切なのです。
悲しみを感じる事で、仏(気づき)としてこれまでの日常を、宝物であふれていた事を、見直し気付けるのです。
この悲しみから「気づく」という事が、大切な成仏の姿であり、そのためには日常を当たり前として生きる、煩悩具足の悪人の時間が、何よりも大切な往生の要素であり、確実に仏と出会える大切な要因となるのです。
⑦よって善人だに
⑦ よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。
つまり、煩悩の時間が無い善人ですら往生できるのだから、煩悩の時間を過ごした悪人が、往生成仏できないわけがありません。