170cmから生まれた生贄
170cm
私の身長は169cmです。
最近、身長が170cm以下の男性には人権が無いという発言をし、若い女性がプロゲーマーのお仕事を失ったという事を、ネットニュースで知りました。
①三高
私が若い頃には、三高と言う言葉がありました。
これは高学歴、高収入、高身長というものでした。
この言葉が普通に飛び交う社会で、テレビも雑誌もそんな言葉が溢れていました。
ちなみに私は、どれ一つ入る事ができません。
②見えない差別
時間が過ぎて、高学歴の人は、東大王とか高学歴芸人と呼ばれ、クイズ番組などでも大人気です。
一見、努力で解決できそうな学力の高いものを崇拝しながら、相反して、遺伝的な身長の事になると、差別という言葉を使う世の中には、歪みを感じます。
ちなみに、学力も含めた能力は、遺伝がほとんどな事は科学的にも証明されています。
③ネットポリス
今から70年前の戦争中には憲兵という、普通に暮らす人の発言や行動を、お国のためという訳の解らない金看板を振り回しながら、取り締まっていました。
最近では、ネットポリスという、訳の解らない正義を語る連中が令和の憲兵として暗躍しているようです。
若い女性が、異性に求める発言内容すら問題視する現代の、繋がりの容易さと、許容力の無さ、監視社会の生み出す閉塞感には、恐ろしさすら感じます。
④ホワイト革命
最近、社会学者の岡田斗司夫という方が、ホワイト革命という言葉を使い、綺麗さ、清潔さだけを求める社会になりつつある、現代日本の恐ろしさを語っていました。
⑤バブルの頃
私が20代の頃はバブル経済期と呼ばれていました。
当時と現代では、何が何のために他人をここまで厳しく縛り付けるのか、真剣に考えるべきだと思います。
私の若い頃は今の様に物が溢れている成熟した時代ではなく、まだまだ発展途中の経済成長期でした。
⑥延長線
当時は、重厚長大の時代であり、これまでの延長線で物事が成立する、ある意味では、恵まれた時代でした。
同時に世の中には、一発当ててやろうという挑戦者が、たくさんいた時代だったとも思います。
⑦挑戦者目線
基本的に挑戦者目線とは、経済的合理性を優先しますので、他人の事にはあまり興味がありません。
どれだけ自分の挑戦を、短期間で成功させられるか、だけに興味があります。
多くの挑戦者があふれている時代は、紆余曲折があり安定はしにくいと思いますが、自分の事で手一杯で、他人にはあまり興味がない分、自由な時代とも言えます。
⑧オウム真理教
方や現代の様に、時代の変換期には多くの時代の落ちこぼれが生まれてしまいます。
現代の、ネットの技術で他人を攻撃する人達を見ていると、オウム真理教の信者に近いものを感じるのは、私だけでは無いと思います。
私自身は元々高校受験で失敗している分、落ちこぼれ時期が思春期のど真ん中でした。
おかげで、心の免疫は付きましたが、普通に地元の高校に行く人達がまぶしく見えて、正直辛かったです。
SNSで他人が、キラキラした暮らしを見せつける事に対しては、何の価値も私は感じませんが、羨ましく感じる感覚は何となくわかります。
そのキラキラした暮らしが羨ましい感覚と、高校時代の私が他人に感じた、まぶしい感覚は多分、近いと思うのです。
⑨何も生まない
ここで大切な事なのですが、キラキラした人を蹴落としたところで、蹴落とす側には何も得する事はありません。
逆に、妬まれるだけです。
この事を、きちんと知って行動を起こすべきです。
そして、自分が落ちこぼれという、自己否定的な考え方には、明らかに問題があります。
⑩嫌われる勇気
合理性を考えれば、自分の価値観を変えてしまった方が簡単で、早く片付ける事ができます。
岸見一郎さんの出された「嫌われる勇気」に書かれている様に、要は本人の捉え方の部分だけ切り変えるのです。
⑪分断社会
暇な人が多い時代は、実は物凄く豊かであるにも関わらず、ある意味では不幸な時代だと思います。
必ず、そこには持つ者と持たざる者の二種類に分断されます。
歴史的にも人々の暮らしが豊かになり、暇人が多く生まれた時代を持った国にギリシャがあります。
そこでは、哲学という学問が生まれました。
それと同時に、人と意見が合わない、コイツ生意気、気に入らない、というだけで殺されたソクラテスという哲学者がいました。
今の、SNSで他人の上げ足をとり、攻撃をされて社会的に殺されていく人達と全く同じです。
⑫まとめ エピクテトス
その後、エピクテトスという哲学者が生まれました。
彼は奴隷出身の哲学者です。
奴隷出身だからこそ、確立された哲学とも考えられます。
今をどうとらえるか。
分別の大切さを教えてくれる哲学です。
エピクテトスの本は、かなりお勧めです。
時代が熟成され豊かになり、暇な人が増える時代には、多くの文化が生まれるのと同時に、自分の挑戦を諦める人が増えます。
その人たちが、他人のあげ足取りが増え、時に生贄を作り出すことで、何らかの憂さを晴らす、嫌な文化を人は再び構築しだしているのかもしれません。