末代無智
末代無智の御文
私たちの宗派では、お勤めの最後に御文と呼ばれる、文章を拝読いたします。
①御文
御文とは、本願寺第八代門主の蓮如上人が書き残された手紙を集めた物です。
蓮如上人とは今から500年以上前の室町時代を生き方ですが、当時すでに手紙を活用して、地方とやり取りを行う事で、多くの情報を発信し、収集する事の重要性を理解している事から、時代を先取りする方だったようです。
②一休さん
また、お友達の一人に一休さんがいて、苦しい時代にもかかわらず、面白い逸話も残っていることから、陽気な少し変わり者だったのかもしれません。
ちなみに、自防には蓮如上人の「五歳の書」があり、法要の際には虫干しを兼ねてお披露目をしています。
ご縁が合えば、見ていただく事ができます。
③勘違い
私たちは、自分のこれまでの経験が、今の立派な自分を作り出していると、勘違いしやすい生き物です。
それに対して、末代無智で始まるこの御文は、その姿勢を真っ向から否定している様にも読み取れます。
私たちは、知識と智慧を混ぜで認識している様に思います。
知識は学びから身に付けた物であり、智慧は身に付けた知識をいかに活用できるかという、表現の方法だと思います。
④智慧
物を知っているから偉いとか良いのではなく、その知った物事を日常にどう活かしているかに、学びの本質もあるはずです。
いかに、本質を見抜き、豊かに人生を過ごす事ができるかが、大切な事だと思います。
⑤十八願
この御文には、「第十八願の念仏往生」と書かれています。
第十八願とは、仏説観無量寿経に書かれている願文で、親鸞聖人が正定聚と表現されています。
私の意訳では、自分らしく生きる事の大切さと、最後に念押しで書かれており、「唯除五逆・誹謗正法」ワガママ勝手はダメだという、二つの文章からなる願文です。
第十八願には自分らしく生きる事を支持しながらも、そこでの自分勝手な振る舞いに対しては、厳しい姿勢が示されています。
⑥気付きの暮らし
また、乃至十念と書かれているように、お念仏を称える事で、常に気付きの中に身を置き、今がこれまでにない、新鮮な時間が届いている事を忘れずに注意する事。
そして、これまでの経験に「今」を加える事で、より豊かに生きて往きましょうと書かれています。
⑦死の捉え方
私たちは、死という表現を、命が終わる時だけに限定して使います。
死という表現を、過去という考え方に用いても、何もおかしくないと思います。
逆に、命の終わりに限定する方が、自分の考え方を狭くして、文字から伝わる、昔の人達の活き活きした姿を、見えなくしている様にも思います。
⑧往生
往生も生き進む姿でも、おかしいとは思いません。
それぞれの時代にそれぞれの不安があります。
まとめ 宗教の役目
存在に自信を与え、不安を少しでも軽減させることが、宗教の仕事だと思います。
宗教の安心を、命が終わる事だけに限定するのではなく、生まれて生きて命が終わる迄の生老病死、と呼ばれる人生の総てに、安心をくれる教えの解釈でも、良いと思います。