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2022/08/06
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末代無知

よく読まれている御文の一つに、「末代無知」と呼ばれる、我々の業界では有名な御文があります。

①末代無知

②弥陀を頼む

③南無阿弥陀仏

④弥陀のすくい

⑤第十八願

⑥煩悩の眼

⑦新鮮

まとめ 無知で未知

①末代無知

始まりが末代無知と、どこまでいっても無知と言う言葉で始まるので、人によっては不愉快に感じられる可能性も含む、印象的な文章です。

実際には間違っても、「物事を知らない」とか、「頭が悪い」とかという意味ではありません。

常に人生という冒険の中に自分が存在し、未知なる世界に身を置いていく、そういった意味が含まれているものだと考えています。

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②弥陀を頼む

文章の中に「心を一つにして、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、さらに世の方へ心振らず」とあります。

この部分も、阿弥陀仏を深く頼みまいらすと、言う事なので、今の時代に合わせて表現を変えれば、阿弥陀様に何かの依頼をするのと考えてしまいそうです。

実際には、私は私の役割を理解し、常に気づきの中に身を置いて生きて往こう、と言う表現にもなると思います。

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③南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏と言う六字の名号を解読すれば、

「南無は出会う」

「阿弥陀はたくさんの」

「仏は気づきのきっかけ」

と言う訳し方が可能になります。

これを基に考えれば、私たちは普段から知っている、当たり前と言う考え方は、養老孟司師が書かれた「バカの壁」の様に、何かの勘違いに固定された自分自身が、自分自身によって動けなくしているとも言えます。

実際には、常に私たちは無知なる現在に身を置き、未知なる今を進んでいるのです。

そのことを自覚していくことが、大切な事のように感じます。

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④弥陀の救い

その続きには「たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来はすくいましますべし」と書いてあります。

このことからも、いかなる人生を歩んで来たとしても、必ず阿弥陀様は救ってくださる、摂取不捨と呼ばれる、おはたらきが書かれています。

そして、常に私たちは、気づかせてもらえる、教えてもらえる世界に身があると、訳すことができます。

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⑤第十八願

続きには「これすなわちこれ第十八の念仏往生の誓願の心なり」とあります。

第十八願の念仏往生の誓願と言う事は、「至心信楽の願」を示しています。

至心信楽の願を親鸞聖人は「正定聚」と表現されており、私は「正しい、自分らしい生き様」と訳しています。

つまり私たちは皆、阿弥陀様から願われて、自分らしく生きていけばいい。

今ある縁の中で一つ一つ学んでいけば良い。

そして、いろいろな物事を築いていけば良い。

その様に教えていただいているのでは、ないのでしょうか。

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⑥煩悩の眼

残念ながら私たちは、物事を知っている、理解していると言う前提で、物事を見て行動を起こします。

実際に私たちが居る世の中は、知らない未知の事であふれています。

だからこそ、私たちは知らないという感覚に身を置いて、常に心を新鮮にして、一生懸命に生きて往く。

その姿こそが阿弥陀様から願われている、理想の姿なのかもしれません。

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⑦新鮮

 新鮮な今を気づけない私たちが、少しでも新鮮な気持ちで今を丁寧に生きて欲しい。

そんな願いが込められて、この御文は書かれているのかもしれません。

またお念仏と言うものも、常に新鮮な気持ちで生きていきましょう。

自分が分かっていると思っている今や世界は、何も知らない事ばかりだよ。

どこまでいっても世界は広いし、未知しかない事を、教えていただいているのかもしれません。

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まとめ 無知で未知

その様な自分の姿を気づかしてくれるお言葉が「末代無知」という表現でも良いと思います。

お念仏をいただくとは、常に私たちは未知と無知の中に存在し、無知であると言う自覚を大切にして、新鮮な心を大切にするべきだと思います。

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