末代無知
よく読まれている御文の一つに、「末代無知」と呼ばれる、我々の業界では有名な御文があります。
①末代無知
始まりが末代無知と、どこまでいっても無知と言う言葉で始まるので、人によっては不愉快に感じられる可能性も含む、印象的な文章です。
実際には間違っても、「物事を知らない」とか、「頭が悪い」とかという意味ではありません。
常に人生という冒険の中に自分が存在し、未知なる世界に身を置いていく、そういった意味が含まれているものだと考えています。
②弥陀を頼む
文章の中に「心を一つにして、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、さらに世の方へ心振らず」とあります。
この部分も、阿弥陀仏を深く頼みまいらすと、言う事なので、今の時代に合わせて表現を変えれば、阿弥陀様に何かの依頼をするのと考えてしまいそうです。
実際には、私は私の役割を理解し、常に気づきの中に身を置いて生きて往こう、と言う表現にもなると思います。
③南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏と言う六字の名号を解読すれば、
「南無は出会う」
「阿弥陀はたくさんの」
「仏は気づきのきっかけ」
と言う訳し方が可能になります。
これを基に考えれば、私たちは普段から知っている、当たり前と言う考え方は、養老孟司師が書かれた「バカの壁」の様に、何かの勘違いに固定された自分自身が、自分自身によって動けなくしているとも言えます。
実際には、常に私たちは無知なる現在に身を置き、未知なる今を進んでいるのです。
そのことを自覚していくことが、大切な事のように感じます。
④弥陀の救い
その続きには「たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来はすくいましますべし」と書いてあります。
このことからも、いかなる人生を歩んで来たとしても、必ず阿弥陀様は救ってくださる、摂取不捨と呼ばれる、おはたらきが書かれています。
そして、常に私たちは、気づかせてもらえる、教えてもらえる世界に身があると、訳すことができます。
⑤第十八願
続きには「これすなわちこれ第十八の念仏往生の誓願の心なり」とあります。
第十八願の念仏往生の誓願と言う事は、「至心信楽の願」を示しています。
至心信楽の願を親鸞聖人は「正定聚」と表現されており、私は「正しい、自分らしい生き様」と訳しています。
つまり私たちは皆、阿弥陀様から願われて、自分らしく生きていけばいい。
今ある縁の中で一つ一つ学んでいけば良い。
そして、いろいろな物事を築いていけば良い。
その様に教えていただいているのでは、ないのでしょうか。
⑥煩悩の眼
残念ながら私たちは、物事を知っている、理解していると言う前提で、物事を見て行動を起こします。
実際に私たちが居る世の中は、知らない未知の事であふれています。
だからこそ、私たちは知らないという感覚に身を置いて、常に心を新鮮にして、一生懸命に生きて往く。
その姿こそが阿弥陀様から願われている、理想の姿なのかもしれません。
⑦新鮮
新鮮な今を気づけない私たちが、少しでも新鮮な気持ちで今を丁寧に生きて欲しい。
そんな願いが込められて、この御文は書かれているのかもしれません。
またお念仏と言うものも、常に新鮮な気持ちで生きていきましょう。
自分が分かっていると思っている今や世界は、何も知らない事ばかりだよ。
どこまでいっても世界は広いし、未知しかない事を、教えていただいているのかもしれません。
まとめ 無知で未知
その様な自分の姿を気づかしてくれるお言葉が「末代無知」という表現でも良いと思います。
お念仏をいただくとは、常に私たちは未知と無知の中に存在し、無知であると言う自覚を大切にして、新鮮な心を大切にするべきだと思います。