意識をする時間
意識をする時間
①86,400
先日、一日は86400秒というお話を聞きました。
86400秒の内、3分の1の28800秒は睡眠時間だから、どうしても使う事はできません。
貪欲に86400秒を自分の意思で使い切ろうとすれば、体調不良になる事は明らかです。
私達が、毎日いただけている86400秒の内、意識して使用している時間は、どのくらいあるのでしょうか。
②考えていない
朝起きて、おトイレに行き、顔を洗い、歯を磨き、服を着替えて出かける。
いつの間にか総ての行為を、何も考えずにこなしているのではないでしょうか。
③仏説阿弥陀経
仏説阿弥陀経というお経を、親鸞聖人は不定聚の機(定聚の無い人の姿)と表現をなされています。
因みに、定聚の捉え方はどれが正解という具体的なものはありません。
つまり、お経をどの様に読むかで、言葉の取り扱い表現をいろいろと替える事は、豊かな想像力を膨らませる上で大切な事であり、宗教をリベラルアーツとして捉える以上、正しい発想であり行為だと思います。
④無意識
今回は、この定聚という言葉を「意識」という意味で捉えてみます。
そうすると、不定聚は不意識となります。
日常の言葉にすれば、意識が無い状態や、意識を忘れている状態となるので、無意識と表現するのが伝わりやすいと思います。
仏説阿弥陀経は、無意識の事が書かれていると読むのも、面白く興味深くしてくれます。
⑤難
そして、仏説阿弥陀経の終盤には、難信之法 行此難事 説此難信之法 是爲甚難 と「難」という字が続きます。
阿弥陀経の中では、難を有難いに変換するお釈迦様の超人的な優秀さが讃えられている様に写る訳になりますが、お釈迦様は私達と同じ人間です。
超人的な逸話はどの時代にもあります。
逸話とは、世間話に背びれや尾びれが付いて、話が大きくなる事と同じです。
逸話を抜きにして人間としてお釈迦様の姿を見た時、そこに存在するのは私達と同じように自分らしく生きる事で、もがき苦しんだ一人の人間しかいません。
⑥日常生活
お釈迦様は五濁悪世と呼ばれる、私達と同じような日常生活に身を置き、その中で、気付き(覚り)を手に入れたのです。
見失いがちですが、仏教は気づき(覚り)を大切にする教えです。
願う人にとって都合の良い事を、救いという名でお届けする教えとは違います。
仏説阿弥陀経は、私達の過ごす時間のほとんどが意識できない事を、教えてくれるお経と考えても、大きくは外れてはいないと思います。
⑦慣れの世界
日常生活の中で、自分の行動を意識する時間は一日の中で、何時間あるでしょうか。
おトイレ、洗顔、歯磨き、その他総て一つ一つを意識して事をこなしていないと思います。
物事の最初は意識をする事で緊張をします。
緊張の伴う時間は長く、息苦しさを感じます。
しかし、慣れてくると慣れの分だけ、意識をする事が無くなり同時に緊張も無くなります。
緊張の無い慣れの世界に身がある姿を、不定聚と表現なされたのかもしれません。
まとめ 自分の当たり前
慣れの世界とは、たくさんの自分の当たり前があふれている世界です。
池中蓮華 大如車輪 青色青光。
自分は自分らしく、自分を精一杯生きて往く。
他人には他人の、自分とは全く違う当たり前があります。
自分は自分の当たり前だけを大切に、自分の生活を送る。
一人一人みんな違う当たり前がある事を、気付かせ、教えてくださるのが、仏説阿弥陀経なのかもしれません。