悪と罪の違い
悪と罪
①悪人正機
悪人正機という言葉が真宗には在ります。
いろいろな解釈があると思いますが、悪人と呼ばれる至らない存在こそが、仏のおはたらきに出会える可能性を秘めた存在だと私は承知しています。
他の宗教には悪とは別に罪という言葉が存在する事を知りました。
②罪と罰
そして罪という言葉の続きには罰という言葉が付いて来ます。
人とは罪の存在だから、人には罰が付いてくるのだと、ニーチェはアンチクレストという本の中でキリスト教の解説をしています。
宗教という範囲の中で言葉の意味を考えれば、罪と罰は仏教では因果という言葉に近いと思います。
③悪人の解説
正信偈にも悪という言葉が幾度か出てきますが、「邪見憍慢悪衆生」と悪人の具体的な解説として邪見と憍慢が記されています。
正信偈に書かれている悪という文字には、悪だから罪であるという様な結論や発想は一切なく、どの文脈からも人の至らない姿が悪であると表現しているにすぎません。
また、悪を改善するように求める様な文言は、どこからも読み取る事はできません。
総ての人は至らない存在だという事実を前提として親鸞聖人は、自らの事を愚禿と表現し、愚かで足りない存在でしかない事を忘れないように努力なされていたのではないかと思います。
人という何かと至らない存在に対して神仏をどの様に活用するかで、それぞれの宗旨宗派の特徴が生まれてきます。
④アンチクレスト
ニーチェはキリスト教が嫌いです。
正確にはキリストの教えを嫌っているのではなく、キリストの教えを司祭者側の都合の良いように書き換え、キリストの本来の教えと異なる内容で利用しているからだそうです。
キリスト教の僧侶という立場がどの様な物か私には理解できませんが、キリストやマリアを利用し、人の存在の根源に対して、道徳という清らかな理想と、実在する人との差を罪とする事で、人とは罪の存在であるという不安を植え付け、人を支配し服従させる事が僧侶の役割だと本の中では書かれています。
日本では聖徳太子以降仏教が広がり今日にまで至ります。
⑤法然上人
仏教も最初は支配者層の方々の教えでしたが、法然上人が市井の方々にも触れられる様にご尽力してくださいました。
一枚起請文から見えてくる法然上人の姿には、ニーチェ同様に宗教を利用して人の支配や服従させる事を嫌う表情を垣間見る事ができます。
⑥二つの顔
人間は神仏に対して、支配と自由という二つの顔を持たせた様に思えます。
一つは支配者の顔で、ニーチェや法然上人が嫌った、悪を罪に書き換える事で人の存在に負い目や、不安や恐怖を常に生み出させる神仏。
もう一つは安心を提供する顔で、悪は人の至らない素晴らしい個性として認める事で全人類の存在を肯定し、負い目や不安から人を解き放つ自由と自信を届けてくれる神仏です。
⑦お念仏の教え
法然上人の門弟である親鸞聖人は、お念仏を「円融至徳の嘉号」と表現しています。
不安や恐怖という感覚も自己においては大切な感覚であり、総ての出来事を自分の事として引き受け、豊かに生きる糧(徳)にしていこうとする、神仏(阿弥陀)を自己肯定感の礎にして貪欲に生き抜く事の大切さを教えてくれます。
まとめ 貪欲に生きる
私たちも親鸞聖人の様に、愚かさや至らなさを各々の素敵な個性として引き受け、貪欲に生きる事に挑戦してみるのはいかがでしょうか。
これまでを糧にしてこれからを挑戦する人生は時に、年甲斐にもなく等と笑われるかもしれませんが、決して悪くない充実した時間の過ごし方を手に入れられる可能性が秘められていると思います。