二つの棄國
二つの棄國
仏説無量寿経には、棄國という言葉が三度出てきます。
そして棄國の後には二つの文字で表現されています。
①棄國財位
最初は棄国財位とあります。
これは、お釈迦様が修行の道を選び、宝飾された馬や道具などの、財産と呼ばれるものを捨てる所で表現されています。
字として頭についている棄國の棄は、廃棄の棄てると言う事なので、再利用する事などを一切考える事なく、二度と使わないと言う表現が正しいかと思います。 棄の後が國なのです。
②國とは
國は正信偈では浄土に対して國土と表現されていますので、生活とか暮らしと理解しても大方間違いではないと思います。
そこから棄國は、これまでの生活を棄てるという読み方でも、良いと思います。
見落としがちですが財位とは、評価基準が外にあり、他人の誰もが分かる物事を表しているので、社会的な価値があるものを廃棄処分したと理解しても、間違いではないと思います。
③棄國捐王
次に棄國捐王と言う表現が二回出て来ます。
この捐と言う字も、捨てると言う意味ですが、内容が廃棄の棄てるとは少し違います。
財位の評価基準は誰もがわかる事に対して、この捐という字は、自身の血肉に関わる物を捨てる際に用いる字だそうです。
親子の縁を捨てるとか、生まれながらの身分を捨てると言う事などの評価基準が自分にしかない物事や、これまでの思い出や故郷など、心の中にある大切なものを捨てた事になると理解しています。
④捐
私は寺の子として生まれ、小学校入学時からお寺で生活をしてきましたので、お寺やその関連した物事にはたくさんの思い出があります。
ですので、私が住職や僧侶をやめてこの地を去る際には、この捐と言う字を用いて、捐住職とか捐僧侶になるのだと思います。
⑤財位
また僧侶と言われる人にも、人生の途中からご親族の関係や、就職などの縁があり、途中から僧侶になられる方もいます。
その様な方の場合には、社会活動をしていく中で用いられる、社会的地位としての僧侶と捉える事が標準的になると思いますので、僧侶を辞める際には、棄位僧侶とか棄位住職と表現されるのではないかと思います。
これは差別とかとは違い、関係性の中から生まれてくる差異だと理解しています。
人にはそれぞれ捐(すてる)物や時が存在し、それは生まれ育った縁や環境を捨てる際にはどなたも捐○○と表現されるのではないでしょうか。
⑥緑色の寒天
幼少期からお寺の子として育つ事は、良い思い出も嫌な思い出もあります。
昔から落ち着きが無く、じっと大人しくしている事が苦手な私にとっては、お寺の事に関しては苦痛でしかなく、嫌な思い出の印象が正直強いです。
とは言え、お爺さんが法事で頂いて来たお膳は、どれも美味しく緑色のミカンやパインの入っていた寒天は当時の大好物で、喜んでいただいた楽しい思い出ですし、たくさんの楽しかった思い出が詰まっているのも本当です。
この様な思い出は、一人一人が持つ感覚であり、比較をするものではないと思います。
⑦みんな同じ
お釈迦様がお城を出た時には、何を思い出し出家したのかは分かりませんが、多分生まれた身分上、無理矢理でもさせられた嫌な事と、それなりに楽しく過ごした、ありきたりの温かい光景だったのでは無いかと思います。
無量寿経に書かれている棄國の続きは、どちらも手放す事であり、辛い事ではないと思います。
ただ、何かを所有している以上は、所有者の都合には一切関係なく、手放す時が来るのも事実です。
まとめ 貪欲に生きる
ただ、手放す事をどの様に捉えるかが、念仏者の真価を問われる時ではないでしょうか。
ただそれは今考える事では無く、今は今を精一杯生きればそれだけで十分だと思います。
現在所有している物事を捨てる時はいずれ来ます。
そう考えれば、その時まで自分ができる事を精一杯行い、どこまでも貪欲に生きる事も念仏の教えを大切にする一つの姿ではないでしょうか。