君たちはどう生きるか
君たちはどう生きるか
①アニメ化
今年の夏に、アニメで映画化された事を知り、少し本の内容を思い出しました。
君たちはどう生きるかに出てくる主人公の少年は、コペル君というあだ名で呼ばれています。
コペルとは地動説を発見したコペルニクスに因んで、叔父さんから名づけられました。 詳細は本か映画でご確認ください。
②普通に悩む
大人ですら、「君たちはどう生きるか?」と問われた時には、どの様に答えれば良いのか悩むみます。
大人でも悩む問題に対してコペル君も悩み、色々な事を教えてくれる叔父さんと言葉を交わし、その中で自分なりの答えを導きながら、コペル君なりの成長をします。
③正解が欲しい
私たちは質問があると、必ず正解があるという前提で質問の回答を考えます。
しかし、どう生きるかという質問には、希望や憶測はあったとしても、正解はありません。
万事塞翁が馬という諺があります。
その時の判断が決して、悪いものでも、良いものでも、無いという時に使います。
私たちは時の判断に対しては、その直後の展開から、良い判断とか悪い判断と決めていきます。
良い判断だと思い事を進めていく中で多くの困難や障害が出てくると、これまでの良い判断だと思っていた事が、一気に悪い判断であったと覆ります。
④未来は不確定要素
その逆の事も良くある事です。
私たちは、判断をする際には直後だけを想像し判断を行います。
動物である以上、身の危険を感じれば咄嗟に逃げるという事で、命を繋げて来た名残だそうです。
かといって遠い未来に都合の良い姿を想像して判断をするにしても、未来には不確定要素しかないので、不可能です。
では、どうすれば良いかという事になります。
⑤円融至徳の嘉号
親鸞聖人はお念仏を「円融至徳の嘉号」と解釈なされ書き残されています。
お念仏を願い事や欲望を引き寄せるためとか、厄払いの呪文の様に考える方がお見えですが、不確定要素の未来に対して、自己都合を求めるお念仏の発想とは全く違います。
今の現実をどの様に引き受けるかを表現なされています。
過去は過ぎた事でしかありません。
過去に辛い事や嫌な事があっても、それらを総て引き受けて、徳にしてしまいましょうと書き残されているのです。
辛い事や嫌な事は無かった事にしたいのが本音ですが、親鸞聖人は阿弥陀様からの本願という贈り物には、捨てる所が無いと書き残されているのです。
⑥是非善悪
私たちは、思春期のコペル君と同じように、今の自分の判断に是非善悪を付けて考えてしまいます。
しかし、万事塞翁が馬という長期的な発想を持つ事で身の回りの出来事を見直す事で、無理に自分の過去を分別するのではなく、過去をそのまま自分のこれ迄として、総て引き受ける事も決して悪い事では無い様に思えます。
⑦摂取不捨
阿弥陀様からの贈り物である、信心と呼ばれる本願力回向は総ての人に届いていますので、私たちに対してのおはたらきは摂取不捨と呼ばれます。
引き受ける側も、きちんと摂取不捨の本願を受け取る以上、人生経験を余す事無く自分のものにする事は、とても大切な心得の様に思えます。
阿弥陀様には摂取不捨を求めておいて、私たちは取捨選択の姿勢を持つ事は、阿弥陀様に失礼ではないでしょうか。
⑧自分ができる事
私たちには過去の扱い方を自由に決める権利があります。
これ迄の嫌な事や辛い事を、学びや経験という言葉に表現を変換する事で何か問題があるでしょうか。
人は過去の経験を活かす事で、人生をより豊かにする事が可能になります。
私たちは、未来に正解があると考えがちですが、未来には不確定要素しかなく、正解が存在するはずもありません。
念仏者には、今を正解にしていく発想が、求められている様に思います。
みんな違う
親鸞聖人の書き残された文には、お念仏を利用し未来をあてにする文言を私は知りません。
君たちはどう生きるかの答えは、念仏者であれば一人一人の過去に沿う形で、千差万別の回答が出てきて当然です。
また、お念仏と縁の無い方にも、それぞれのご縁の中からの回答が出てくると思います。
みんな違う人生を歩んできた事を忘れているから凡夫であり、阿弥陀様が常に照らしてくださっている環境に身を置けるのではないでしょうか。