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2024/08/30
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不登校のススメ

①堕落しよう ②自分らしく ③気にしない 自由に生きる

①堕落しよう

堕落という発想には、どこかよろしくないことを行っているように伝わります。 実際に堕落の定義を調べてみたところ、「罪を犯す、穢れる、醜くなる、下劣になる、卑しくなる、落ちぶれることを言う」と出てきました。複数の言葉で定義が表現されていますが、総てが主観的な内容であり、客観的には伝わり難く、判断した自分自身がどのように捉えるかという、自分の問題が大きい様に思えます。 お釈迦様は思春期に引きこもりになっております。また、働き盛りには宮殿を出て、修行者の道を選んでいます。修行中もスジャータから牛乳粥を施され食しています。これらの行為はいずれも、堕落した(規則違反)と判断することは十分な要素です。 しかし、お釈迦様は引きこもることがきっかけで、四門出遊という貴重な体験を手に入れました。また、修行の道を選ばれたことで仏教が始まっています。そして、スジャータの牛乳粥がなければ体力が尽き、悟りを開くことはなかったと考えられます。 余談ですが、お釈迦様はスジャータからの牛乳粥を施された時に、修行仲間から堕落者と呼ばれて見放された(仲間外れ)そうです。

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②自分らしく

お釈迦様が遺された一番の教えは、「信楽」と呼ばれる生き方ではないかと思います。 信楽を親鸞聖人は歓喜賀慶と解釈なされています。「縁を喜び力強く生きること」と、訳せます。 お釈迦様は、選択の優先順位を常に、自分がどうしたいかで決めていたと想像できます。 更には、目標を決めてからは、目標を達成することが正解であり、周囲がどのように考えていようがお構いなしの人だったように思えます。

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③気にしない

スジャータの件が一番わかりやすいのですが、当時の修行者は女性からの食施を直接受け取ることが禁止されていたそうです。規則違反をした以上、お釈迦様を堕落者と呼び、仲間外れにする行為は集団生活では、自然なことかもしれません。 ここで大切なことを見落としていますが、修行における本来の目的は、悟りを開くことであり、手段を守る事ではありません。 私たちもお釈迦様の修業仲間と同じように本質に目を向けることを忘れて、手段という上辺ばかりを見ているのではないでしょうか。 堕落という言葉は、最初に書いた通り、主観的なものでしかありません。自分がどのような道を選んだとしても、自分が選べば立派な選択であり、他人が何かを言えるものではありません。 今年の夏の甲子園では、滋賀学園の野球部応援ダンスの映像がSNSでは人気を博しました。 この様子を悪く言う人もいたようですが、悪く言う人は他人の様子を自分の主観で語っているだけであり、所詮は無責任で属性の低い発言でしかありません。 それぞれの縁の中で、力強く生きることが信楽だとすれば、応援団でダンスした彼らの姿と、お釈迦様がスジャータからの牛乳粥を食した姿は、全く同じ姿と見ることもできます。 本人が良ければ、それが一番良いのです。

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自由に生きる

堕落という感情は、本質ではなく上辺を気にする事から生まれる、後ろめたさの様な感情だと解釈できます。所詮は感情の産物である以上、時間の経過と供に変化をおこしますし、それほど気にする程のものでもないと考えられます。 堕落という同調圧力の中から生まれる無意味な言葉に束縛される人生は、お釈迦様の選ばれた生き方とは大きく違います。 お釈迦様は堕落なんて感情は一切無視して、主体的に自分の善かれを貫き通しています。 仏教徒である以上、自分の善かれを大切にする生き方こそが、お釈迦様が遺された教えを大切にする、最も大切な姿勢なのかも知れません。 規則を優先するのではなく、今の自分が善かれと思う方向に歩みを進めて、たくさんの経験を重ねる事が、何よりも大切です。 お釈迦様の様に周囲の事などは無視をして、自分らしく精一杯生きることを善しとする人生を、選んでみるのも、悪くないと思います。

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